闇に謳えば

第一章


 ゴーン… ゴーン…
 黄昏色に染まる街に、鐘の音が響き渡る。
 アースウォリア城下中央、レヴィアントの鐘。
 かつて戦が絶えなかった頃に、平和を願って建てられた鐘塔である。
 毎日朝の9時から夜0時まで、3時間毎に鳴るそれは、騎士たちにとっては入れ替えの時間を指し、住民たちにとっては平穏な生活の象徴として、その音を荘厳に響かせる。
 夜6時を示す鐘の音を耳に、リュールはオレンジ色の石畳を歩いていた。
 既に人は疎らで、早い家では明かりが灯りはじめている。
 夕飯の香りが街中に漂う、なんとも幸せな時間。
 彼は、訓練を終え、帰ってくるこの時間が大好きだった。
 帰ってきた父親を迎える声、食事をしながらの談笑、どれもが暖かく、それを聞いた自分も満ち足りた気持ちになるのだ。
 そんな家々のぬくもりを通り抜けながら、リュールは細い路地裏にある自分の家を目指した。
 日は沈み、先程までオレンジ色をしていた石畳は、いつの間にか夜色に塗り替わっている。
 煌々と灯る家の明かりを頼りに細い路地を行くと、小さいながらも立派な家が姿を現した。
「あれ」
 ようやく辿り着いた我が家を見て、リュールはその濃紺の瞳をぱちくりさせた。
 家に明かりが灯っている。
 普段であれば、明かりに火を入れるのは自分の仕事なのだが、今日はどうやら先客がいるようだ。
 少し不思議な感覚を覚えながら、彼は家の扉を開いた。
「ただいま」
 そこで彼を出迎えたのは、数時間前に雷を落とした張本人、総指揮官シウバであった。椅子に深く腰を下ろし、心なしか落ち着かない様子でこちらを振り返ると、小さくおかえりと告げる。
 なんとなく照れを感じるその姿に、リュールは笑いを噛み殺し、もう一度、ただいまと言った。
「どうしたの、父さんがこんなに早く帰ってくるの珍しいじゃん」
 上着を壁にかけ、腕をぶんぶん回しながら尋ねる。ジェラルドにこってり絞られた身体が、コキコキと音を立てた。
 アースウォリア総指揮官シウバ=フィリス。国の騎士達の事実上頂点に立つこの男は、立場相応に仕事も多く、いつも帰宅が遅い。ましてや、一兵卒のリュールより早く帰ってくるなど、今の今まで一度もなかった。
 そんな彼も家に帰れば普通の父親らしく、しかし、どこかぎこちなくその眉間にシワを寄せる。
「……陛下がな」
 ようやく発した言葉には、諦めにも似た響きがあった。もごもごと言いにくそうに、しばらく間が空いて、
「たまには、家族サービスをしろと」
 と観念したように答えた。
 陛下――つまり、アースウォリア国王と、父シウバは、長年の親友である。
 今からもう数十年も前、当時まだ王子だった国王に、シウバはその腕を見初められ、近衛兵として抜擢された。
 しがない平民だった父は、当然、緊張の中面会をするが、そんな父に国王は、
「今日からお前は、私の友人だ」
 とあっけらかんと言い放ったそうだ。
 以降、堅固な主従として、一人の友として、幾度も戦に赴き、このアースウォリアに勝利をもたらしてきた。
 そして、その交友関係は未だ継続中であり、それゆえに、互いの家庭環境はほぼ筒抜けである。
 もはや、<勅命>と同義の帰宅命令は、父にとっては如何ともしがたい力を帯びていたようだ。
 リュールは、国王と父の不可思議な友人関係を心の中で微笑ましく思いながら、そうなんだ、と返す。
「リュール」
 一旦部屋に戻ろうと背を向けたところ、父は、やや強張った表情で名前を呼んだ。
「ん、なに?」
 くるりと振り返って返事をすると、シウバは覚悟を決めたような顔をして、
「先に風呂に入って来い」
 とだけ告げた。
 いつもと違う父の様子に首を傾げながらも、リュールは大人しくそれに従うことに決めた。
 そして、数十分後、その父の行動に、彼は絶句することとなる。


「父さん……」
 風呂から上がったリュールは、目の前の光景にあんぐりと口を開けた。
 テーブルにはいつもよりも品数の多い料理が並べられ、内容も心なしか豪華である。
 いつもなら、驚きつつも喜んでいるところなのだが、そんなことが目に入らないくらい、父の姿は強烈に飛び込んできた。
 ピンク色のフリフリがついたエプロンを身につけ、父が淡々と食事の支度をしているのだ。
 あまりの事態に、脳が反射的に理解を拒否し、あんなエプロンうちにあったかなぁ、と現実逃避を始める。
 いつも厳格な父が、いや、まさか。
 そして、そんな息子の視線に気づいたシウバは、なんとも屈辱的な表情で、
「陛下がな……」
 と、力なく答えた。
 ここにきて、リュールは静かに、父と国王の関係に疑問を持つのであった。
 重ねて言うが、父と国王は、長年の親友である。


 久々の親子での食事は、言葉少なに進んだ。元々父は、話すのが得意ではない。ぽつりと一言二言交わし、食事を口に運ぶ。それの繰り返しで、いつの間にか料理はほぼ空になった。
 時折、先ほどの光景が過ぎり、笑いを噛み殺す以外はいつも通りの食事風景である。
「ごちそうさま」
 皿に残った最後の一口をぺろりと平らげ、リュールは満足気にお腹をたたいた。
 久々に食べた父の料理の余韻に浸る。ここ1年くらいはずっと自分で作っていた為、満足感もひとしおだった。
 シウバ=フィリス、リュール=フィリス。
 この二人は親子ではあるが、血のつながりはない。15年前、城門に捨てられていたリュールを、当時指揮官になったばかりのシウバが拾い、男手ひとつで育て上げた。
 周囲の積極的なサポートの元、育児と仕事を忙しいながら両立し、育ててくれた父を、リュールは心密かに尊敬していた。
 アースウォリア一の騎士。
 誰もが認めるその肩書を持つ父は、厳しくもいつも偉大である。いつか自分もそうありたいと思うくらいに。
 穏やかな沈黙をコーヒーの香りで満たし、ほっと一息。こうして親子で水入らずの時を過ごすのはいつぶりだろうか。特にここ最近は、家の中で会話する機会すら減っていた気がする。
「リュール」
 最後にまともに話した日を指で逆算していると、正面から声が飛んできた。呼ばれ、顔を上げると、いつになく真剣な表情をした父の姿があった。
 射抜かれるようなアイスブルーの瞳に、リュールは思わず姿勢を正す。すると、ハッとしたシウバが、手で姿勢を崩すように促し、そこでリュールはようやく姿勢を元に戻した。
 それを確認し、シウバは、しばらく目を閉じてから、
「前々から、お前に聞きたいことがあった」
 と、片付いたテーブルに肘をついた。
 長めに目を閉じるのは、言葉を選ぶ時の父の癖だ。
 心なしか固い表情でこちらを見つめる父に、うん、と返すと、シウバはやはり目を閉じてから言葉を発した。
「お前は、なぜ騎士になった?」
 あまりにも唐突な質問に、リュールは一瞬困惑した。騎士団入団前にすら聞かれなかったことだ。
 なぜ今更。そんな風に思いながら、リュールはううんと頭を捻った。
 理由は頭に浮かぶのだが、どうも口にするのは気恥ずかしい。
 なんとなくそれを誤魔化すように、リュールは頬を掻いた。
 すると、シウバは小さく唸り、再度口を開く。
「質問を変えよう。騎士とはどういう存在だと思う」
 これまた難しい質問である。
 今まで漠然と認識していたことを、自分なりに言葉にしなくてはならない。
「んー……主君とか、民を守る存在?」
 おそらく新人兵10人に聞けば、10人そう答えるであろう回答を口にして、ちらりと父を見る。父は、怒るのでもなく笑うのでもなく、ただ然として、琥珀色の瞳で、彼を見つめていた。
 ややしばらく沈黙が続いた後、シウバは、静かにうんうんと頷いた。
「そうだな、我々騎士は守るものだ。だが、それだと50点だ」
「50点?」
「そうだ、回答としては不十分だ」
 いつもと違う雰囲気に、リュールは居住まいが悪く、しかし、真剣に父の話を聞いていた。今目の前にいるのは、アースウォリア一の騎士なのだ。どんな答えが飛び出すのか、楽しみですらある。
「いいか、リュール。我々騎士は、お前の言う通り、守る者だ。王族はもちろん、民を守るのも我々の仕事なわけだ。……しかし、その一方で、正す者でなくてはならないと思っている」
「正す者?」
 繰り返すリュールに、シウバは静かに首肯する。
「そうだ。王や民が、過ちにより国を滅ぼすようなことが無いように、その間違いを正すのも我々の仕事だ」
「間違いを正すって、自分か間違ってないって思ってないと難しくない?」
 不意に飛び出した息子の問いに、シウバは少し驚いたような表情をしてから、嬉しそうに口の端を緩める。
「お前の言う通り、何が正しいのかは、私にもわからん。ただな」
 そこで一度言葉を切ると、真っ直ぐに、
「自分自身で正しいと思える軸を持て。誰に何を言われても、変えずにいられる軸を」
「変わらない……軸……」
「そこさえ変わらなければ、他の部分がどんなに変わろうと関係ない」
 父のいつになく熱を帯びた言葉に、リュールは考え込んだ。
 それを見ながら、シウバはコーヒーに口をつけ、
「すぐに作る必要はない。時間をかけて自分にとって正しいと思えるものを見つければいい」
 と、見逃してしまいそうなほど小さく笑った。
 リュールはそんな父に一瞬目を丸くしたが、しばらく悩んでから、コーヒーを片手に尋ねる。
「父さんは、どういう軸を持ってるの?」
 問われ、シウバはその琥珀色の瞳で息子の姿を見つめると、眉間にシワを寄せる。
「お前には言わん。多少は自分で考えろ」
「えー、いいじゃんー」
 口をとがらせるリュールから顔を背け、シウバはやれやれと嘆息する。
 しかし、その表情はどこか穏やかで、幸せに満ちていたのだが、それを知る者は後にも先にも息子のリュールだけであった。
 ぎこちなくも久々の親子の談笑に、夜9時を知らせるレヴィアントの鐘が響いた。

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