闇に謳えば

序章


 そこは、静まり返っていた。
 音の波一つなく、ただ刻々と時間だけが過ぎてゆく。
 永遠のようにも感じる時の中、少女はゆっくりと目を開けた――はずだった。
 正確には、目を開けているのか閉じているのか、わからなかった。感覚は間違いなく開いたはずなのだが、視界に映るのは一面の闇であり、自分が果たして立っているのか座っているのかすらわからなかった。
 死んだのかもしれない。
 少女はそう、ひとりごちた。
 目を開ける直前のことはほとんど覚えていない。ただ、自分が死んでいると言われてもなんら不思議のない状況であったことだけははっきりしていた。
 赤く塗りつぶされた視界。耳を塞ぎたくなるような絶叫。そして、最後に触れた冷たい身体。
 自身の記憶が明確になるにつれ、ふつふつと怒りが沸いてきた。同時に、なんとも形容しがたい想いに、涙がはらはらと零れ落ちる。
 ――波が、生まれた。
 静謐の中、ひとつの嗚咽が波紋を広げていく。
 終わりのない闇を音の波が走り、やがて、消えていった。
 少女は茫然と目の前に広がる黒を見つめた。視覚が奪われた状況であっても、身体が限界を訴えているのがわかる。
 死んでいても、疲労感はあるのだろうか?かけ巡った疑問のあまりのくだらなさに、思わず自嘲する。
 自分がこれからどうなるかなど、まるで検討もつかなかった。
 このまま死ぬならそれもいい。
 そう、思った矢先だった。
「……?」
 不意に、少女は辺りを見回した。
 当然、視界には変わらず漆黒のみが映しだされている。
≪……くのだ≫
 声が、聞こえた。
「誰だ!!」
 突如響いた得体の知れない声に、少女は狼狽える。
 目に見えぬ<何か>の存在が、徐々に自分を侵しているような感覚に見舞われ、少女を恐怖心が横切った。
 そんな様子を気にすることもなく、声は今度ははっきりと少女に問いかける。
≪何をそんなにも嘆くのだ≫
 その声は、耳ではなく、少女の脳に直接響いた。
 地鳴りのような低音――しかし、不思議と耳障りな<声>ではなかった。
 少女は困惑した。
 声に、ではない。問いに、である。
 少女にはわからなかった。今しがた、抱いていた思いを捨て去ったばかりである。
≪なぜ答えぬ≫
 声は、淡々と聞いた。
 ややしばらく間が開いて、少女は意を決したように口を開いた。
「悔しいのだ」
≪悔しい?≫
「そうだ、私は、悔しい」
≪なぜ悔しい?≫
「死にゆく家族を前に、私だけ生き残ってしまった」
≪殺されたのか≫
「そうだ、殺された。理不尽極まりない理由で、残酷極まりない方法で」
 少女の拳がわなわなと震えた。
 捨て去ったはずの怒りが、悲しみが、嘆きが、再び彼女の瞳に光を宿らせる。
≪憎いか?≫
 声は、聞いた。
 少女は、かっと目を見開き、吼えた。
「憎い。奴らを滅ぼしつくしても、きっとこの想いは消えぬであろう」
 それは、少女とは到底思えぬ口調であった。
 この闇の中でただ一つ煌々と輝くように、少女の金色が光を見せる。
≪そうか≫
 変わらず淡々と、声は答え、しばし沈黙した。
 いつの間にか少女の胸から、先ほどの恐怖は消え去っていた。
 少女は静かに、次の声を待った。
 ただの好奇心だったのかもしれない。
 それでも、その声を待ちたかった。
 闇が静寂を取り戻し、しばらく経った頃、少女の頭に、またあの声が響いた。
≪何を望む≫
 問いに、少女は思案し、やがて答えた。
「復讐を」
 金色が、一層強い光を帯びる。
≪力がほしいか≫
 少女は、迷いなく答えた。
「ほしい。奴らに復讐する力が、ほしい」
 ふむ、と声は唸った。
≪その身に降りかかる災禍も恐れぬか≫
「恐れぬ。この身が引きちぎられようと、朽ち果てようとも、思念だけとなり、未来永劫の苦しみが待っていようとも、恐れぬ!」
 少女の声が熱をあげる。
「声よ、その問いが好奇ではないのならば、答えよ!!貴様は、私を<生かす>のか!!」
 ゆらり、と闇が蠢いた。
≪生きよ≫
 "耳に"、声が響いた。
 "それ"は、少女の傍らにいた。まるで少女を抱くように、その存在はあった。姿が見えるわけではない。
 ただ、そこに感じられる確かな存在に、少女は目を閉じ、身を預けた。
 その瞬間、そこらじゅうに広がっているものとは比較にならないほどの濃密な闇が、身体を駆け巡ったかと思うと、少女は一つ、大きく脈打った。
 少女の小さな身体では到底受け入れられないであろう量の闇の奔流が、少女を逡巡する。
「……っ!!!!」
 少女は、声にならない悲鳴を上げた。体中に強烈な痛みが走り、闇の上に倒れこむ。脂汗が体中を伝い、首を絞められたかのような息苦しさがこみ上げた。
 声は何も言わない。
 まるで死んだらここまで、と言わんばかりに淡々と少女の身体を侵食していく。
「う……うあぁ」
 絞り出すように、呻く。
 四肢を引き裂かれるような痛みを伴いながらも、少女はなんとか意識を保っていた。
 闇というあやふやな地面に爪を立て、舌をかまぬよう、自らの服を咥えた。
 ――どのくらい、時間が経っただろうか。
 永遠に続くかのように思える痛みの中、不意に、少女はそれを<見>た。
 ――刹那。身体の芯で、闇が爆ぜた。
 それをきっかけに、少女は痛みが遠ざかっていくのを感じた。
 あれほどまでに苦しんだはずの痛みは、まるで最初から存在しなかったかのように、消えていった。
 ゆっくりと起き上がると、少女は汗をぬぐい、手のひらを見つめる。
「……生きる」
 少女は自分の中に、今まで得たことのない大きな力を感じた。
 闇の奔流に耐えた者だけが手にすることができる、強大な力を。
 少女は、闇を仰ぎ見て、発した。
「顕現せよ」
 言うが早いか、大きな音を立てて闇が亀裂した。
 まるでパイのようにボロボロと空間が崩れ落ち、やがて赤い空とほの白い月がその姿を見せる。
 その下で、ひときわ大きな黒い影があった。
 ――龍。
 人は、それをそう呼んだ。
 数十メートルは下らないであろう巨大な体躯に、漆黒の鱗。頭部には、巨大な角と、月のような金色が、ふたつ静かに輝いている。
 ――風が、吹いた。
 少女の露わになった漆黒の髪が、たなびく。
 しばし、見つめあってから、少女は目の前の龍に告げた。
「行くぞ」
 応えるように、龍は大きく咆哮して見せた。

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