「こんばんは、お嬢さん。良い夜ですね」
風の吹き抜ける夜。最早城の一等地とも言える場所で、夕陽色の髪をした老紳士は、実にたおやかに微笑んだ。
背後には、レヴィアントの鐘が、一日の最後の仕事を控え、沈黙を保っている。
アースウォリア王女付きのメイド兼護衛、アリーシャ=ラインハルトは、目の前の老紳士をキツく睨みつけた。
ほんの数刻前のことである。突如夜半に訪れた無礼な訪問者を出迎え、まさに戦闘態勢をとろうとした矢先、気がつけばこの場所に飛ばされていた。
アースウォリア城の屋根。年に一度の大掃除の時ですら、登ったことのない場所だ。
いつもより心なしか近く見える月は、仄白く二つの影を照らしている。逆光でよくは見えないが、紳士の紫紺色の瞳だけは、妙に印象的に映った。
「恐れ入りますが、わたくし仕事を控えておりますので、そこをおどき下さいまし」
背中の槍を構え、アリーシャは出来る限り丁寧に告げた。口調とは裏腹に、彼女は緊張の糸を巡らせている。転移魔法を当然のように使うような相手である。魔法に詳しくない彼女でも、高位の術師であることはすぐに想像がついた。
そんなアリーシャの言葉に、夕陽色の老紳士は心底残念そうな表情で、
「おや、つれませんねぇ」
とため息をつく。
これからいざ滅ぼそうとしている相手への態度としては、あまりに友好的である。しかし、それ故に何を考えているか読めず、アリーシャの表情は一層強張っていった。
突然、老紳士がポンと手を打った。
「これはこれは失礼致しました。私としたことが、大切なことを忘れていたようです」
そう思い出したかのように呟くと、かぶっていた帽子を手に、彼は恭しくお辞儀をして見せる。
「わたくし、魔界シェルヘイム国王……あぁ、こちらでは、魔王と言った方がわかりやすいでしょうか。魔王カインの配下、ロジン=ヘーメラウと申します。以後お見知りおきを」
アリーシャはなんの脈絡もなく始まった自己紹介にややしばらく考えてから、スカートの裾を上げてお辞儀をして見せた。
「アースウォリア王女付きのメイド、アリーシャ=ラインハルトにございます」
何故敵に対してわざわざ名乗ったのか、自分でも不思議であった。槍は一旦屋根に突き立てており、自ら隙を見せているようなものだ。
しかし、老紳士は満足気に頷くだけで、一歩もそこから動くことはなかった。
「アリーシャ、良い名です。挨拶のできる方は好きですよ」
いちいち毒気の抜かれる話し方である。
「では、わたくし、先を急ぎますので」
アリーシャが、槍を引き抜き屋根を蹴った。一瞬で距離を詰め、老紳士の顔を目掛けて槍を振り上げる。
老紳士のモノクルの奥の瞳が、不敵な光を帯びた。老紳士は、持っていた杖から剣を引き抜くと、軽々とアリーシャの槍を受け止める。
「……仕込杖とはなかなか良いご趣味で」
「ありがとうございます。武器はスマートに持ちたいのですよ。貴女こそ、珍しいのでは?」
ロジンが思い切り剣を振り切ると同時に、アリーシャは押し戻された勢いで後退する。
「珍しい、ですか?」
「えぇ、武器を常時見えるところに置いておくなど昨今では珍しいと思いまして。ただのメイドであれば捨て置くつもりでしたが、そう物騒なものを見せられては放置するわけにも参らず」
言われ、アリーシャはハッと下唇を噛んだ。周囲への牽制の為に見せていた武器が、今回は仇となってしまった。
「ですが、おかげでこのように貴女とお話ができます」
ひゅんと一閃で空を切ってから、老紳士は剣を杖に戻す。
不意に、紳士の周りに黒い球体が3つ浮遊して現れた。赤く明滅しているそれは、まるでアリーシャへの威嚇にもとれる。
「ロジン殿、そこをおどき下さいまし。話は後日ゆっくりお茶を飲みながらにでも」
再度、アリーシャは槍を構えた。
「それは大変魅力的なご提案ですが、今は受けかねます」
困った顔で紳士が答えると、その返答を合図に、アリーシャが跳躍。老紳士の真上から言を紡ぐ。
「では、交渉決裂ということで強行突破いたします」
アリーシャの巨大な穂先を黒球の一つが受け止める。老紳士の紫紺色の瞳がモノクルの奥からギラリと覗いた。
「あまり手荒な真似はしたくなかったのですが、致し方ありませんね」
――黄金色の満月が、二つの影を照らし出した。
闇に謳えば
第一章
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